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主屋立面図(新築時の図面)
 

旧長谷川家住宅について

 
神奈川県三浦市の国登録有形文化財第一号となる「旧長谷川家住宅」は、江戸時代から続く名家であり、「川端」の屋号を持つ長谷川一族の本家として使用されてきました。大正12年に発生した関東大震災より、以前あった建物が倒壊し、その当時の当主である長谷川安五郎によって同じような大型地震が来ても問題無い家を作るとの考えから建築計画が始まりました。
 
まずは木の選定を実施し、昭和元年に山から切り出された木を4年かけて乾燥、そして昭和4年に上棟し昭和5年に竣工しました。
 
建物を作るにあたり、宮大工の大井定二・茂治兄弟を棟梁・副棟梁とし、他に全国から腕の立つ職人を呼び寄せて寺社仏閣に引けを取らない家屋を建設しました。
 
また、その翌年の昭和6年、長谷川家の建築に係った大工及び職人は、長谷川家と同じく初声町三戸にあり関東大震災で倒壊した光照寺本堂の再建を行っています。
 
建物の規模は、築89年(令和元年現在)木造平屋建てで面積は約262㎡、瓦葺きの入母屋屋根です。
 
建築当時の資料として、青焼図面や上棟時の写真、棟梁が書いたと思われる手板等が現存してあります。
 
 
 

所在地

 
 旧長谷川家住宅のある三浦市初声町三戸は弥生時代に継続して営まれていた集落が存在し、その遺構・遺物は三浦市でも群を抜いており、多数の竪穴式住居址や土器や装具類などが出土されている赤坂遺跡が国指定の史跡文化財として登録されています。

 
 赤坂遺跡の近くにある旧長谷川家住宅の敷地内からも土器等が出土されており、その中でも子持勾玉(三浦市指定重要文化財)という貴重な考古資料も出土しています。
 
 敷地内には明治時代まで下諏訪神社の社殿が存在しました。この神社は同じ初声町三戸にある上諏訪神社と対をなす神社でしたが、明治時代の神社合祀により廃社となり現在は基礎跡が残っています。

所在地:〒238-0112 神奈川県三浦市初声町三戸2593
 
 
 
関東大震災で倒壊した前身主屋
 

由緒・沿革

 
 敷地は、近世には三戸村に属し、明治11年(1878)の郡制施行により三浦郡に所属、明治22年に初声村、昭和30年(1955)に三浦市に合併されました。現存する主屋は、後述のように昭和5年(1930)に長谷川安五郎が本宅として建設したものであります。長谷川家は旧三戸村の旧家のひとつで、安五郎の先代九郎左衛門(明治23年没)は明治11年の郡制施行時に三戸村の戸長に任じられ、また安五郎の婿養子の幹雄は第10代初声村村長を務めました(『目でみる三浦市史』三浦市、1974)。

 
 大正12年(1923)の関東大震災で初声村は全潰138戸・半潰285戸の被害を受け(『神奈川県震災誌』神奈川県、1927)、長谷川家も後掲の棟札写しによれば主屋が全壊し、その後現存する主屋が再建されました。
 
 

上棟に向かう人々
 
現存家屋の上棟(昭和4年4月12日)
 

建設年代・改修年代

 
 現存主屋は大正12年(1923)の関東大震災による前身主屋の倒壊後、昭和4年(1929)4月に上棟、昭和5年10月頃に竣工しました。

 
 担当した大工の大井定二は地元初声村出身の宮大工で、やはり関東大震災で被害を受けた光照寺本堂(三浦市初声)の再建も担当したと伝えられています。大井姓の大工は、享保7年(1723)建築の福泉寺本堂(三浦市初声)の棟札に「本屋敷 大井作兵衛」とあり(『神奈川県近世社寺建築調査報告書―神奈川県の近世社寺建築』神奈川県教育委員会、1993)、近世から三戸村周辺で活動したことが確認できます。他の職人も、瓦師を除き近隣町村の在住です。
 
 その後、昭和40年代に玄関の東側を半間増築、土間の一部を板敷きに改造し、平成5年(1993)頃に北側に洋室2室と洗面所・浴室を増築した。さらに、平成21年に台所部分を土間から洋室に改造したが、他は建具や内装等も含めてよく創建当初の姿を残しています。
 
 内塀は主屋の玄関東南隅柱に取り付いて建つこと、庭門の欄間等の用材が主屋と共通することから、昭和5年の現存主屋の建替えに合わせて建設されたとみられます。
 
 石蔵は、棟札など建築年代を明示する史料が存在しません。木造の軸組の外周に石壁を積んだ木骨石造だが、内部の柱や梁下端に木舞の仕口や土壁の塗跡が残ることから、当初は土蔵として建てられ、後世に外壁を石造に改造したこと思われます。古写真では、主屋南側に瓦葺の下屋を持つ蔵の軒先が写ることから、前身の土蔵はこれ以前から存在したと考えられます。材の経年等からみても、後述のように三崎町等で石蔵が一般化する明治中期以前に遡る可能性が高く、木骨石造への改造は関東大震災の被災後と推測されます。
 

主屋(玄関を南西側から)
 

建物について

 
(1)主屋

 旧長谷川家住宅の主屋は、木造平屋、桟瓦葺で、敷地北端に南面して建ちます。床上部を中心に、その西側に台所、東側に八畳の離れを別棟で置き、正面に玄関、北西に旧浴室を突き出す構成を採っています。屋根は床上部・玄関・離れは入母屋造、台所は寄棟造で、主体部と離れはむくりを付けています。外壁は下見板張りを主とするが、玄関脇は幅広の竪板張り、離れは土壁に竪板張りの腰壁で変化を付けています。
 
 主屋については、「長谷川家御住宅」と題する青焼きの立面図および小屋伏図・地行伏図・矩計図が残されており、年紀は無いが「設計者大井」の銘があり、創建時の計画図とみられます。これによると、離れは寄棟、台所も土間部分と床上部分に分けて寄棟屋根を掛ける計画だったが、実施時に離れは入母屋造の妻を正面に向けるなど、より壮麗な姿となりました。
 
 平面は、床上部は六間取で、中央列に玄関を突き出しています。東列に床の間を持つ主室(十畳)と次の間(十畳)、中央列に仏間(六畳)・納戸(四畳半)および玄関(四畳)、西列に八畳2室を配し、東および南側に広縁を廻らし、背面の北側に廊下を設ける。先述の青焼図にみる平面とほぼ一致するが、台所は土間を角屋で突き出す計画から一体に変更されました。
 
 意匠では、用材と造作の良さが特筆され、式台は幅広の欅の一枚板に屋久杉の板違格天井、続く玄関も屋久杉の浮造り仕上げの竿縁天井である。仏間の仏壇は欅造りで、透かし欄間と両折戸のガラスに三つ柏の家紋を入れる。内宮殿は朱漆塗りに金箔張り、平三斗や獅子の木鼻、雲竜の兎の毛通しなどの造作が精緻で、大井定二の宮大工としての力量を示します。
 
 主室は、床の間の左右に床脇、右手前に付書院を備え、玄関と同じ屋久杉の浮造り仕上げの竿縁天井の下に幅広の蟻壁を廻しています。床柱は黒柿、地板は欅、床框は紫檀、釣束は瘤花梨など銘木をふんだんに用い、広縁は3尺5寸幅の欅の一枚板である。床脇は、左は天袋に違棚、右は地袋で異なり、狆潜りも左右で変えて変化を付け、付書院の組子や次の間境の「桐に鳳凰」の透かし彫りの欄間など建具類にも意匠を凝らす。全体に材が木太く豪壮で、特に棟通りの柱4本は4寸8分角(14.5cm)と太いが、差鴨居は使用せず、広縁も含めて全室に長押を打つなど、民家より書院座敷の趣が強くなっています。
 
 一方東側の離れは、主室(八畳)と前室(六畳半)から成り、主室北側に床の間と地袋棚を設けています。前室に水屋の痕跡があり、主室の東に濡縁付きの出入口を設けることから、茶室としての使用も想定したとみられるが、現在は畳敷きから板敷きに変更された。主体部と異なり数寄屋風の意匠で、面皮柱に丸太長押、床の間も煤竹を用いた袋床で、床柱は辛夷の皮付丸太、狆潜りは煤竹の井垣組、床脇の天井は網代など侘びた風情になっています。天井の竿縁も面皮で、屋久杉の天井板を敷目板張としています。床脇の富士山文様の小障子も美しい。先述の棟札写しの付記によると、関東大震災の発生時に安五郎は「昼食後裏座敷六畳ノ間ニ横臥、新聞ヲ手ニシテ休憩」とあり、前身建物では「裏座敷」を居所としており、現存する離れは安五郎の隠居部屋だった可能性があります。
 
 以上のように主屋は、伝統的な六間取平面の書院造、離れの数寄屋造ともに用材の質が極めて高く、宮大工・大井定二など職人の造作も優れています。長谷川家が主屋の普請のため昭和元年頃から良材を準備したとの伝承も首肯できます。その一方、外廻り建具や明り欄間にガラスをふんだんに用いた明るく伸びやかな空間は近代らしい特徴で、主室の付書院や離れの小障子の精緻な組子にも摺りガラスを嵌めています。雨戸の枚数が多い主体部東面は、外周に影響が無いよう、戸袋を離れの前室内部に設けるなど、雨戸や戸袋の配置に大開口を活かす工夫を凝らしています。
 

庭門(正面)
 
(2)庭門及び内塀

 庭門及び内塀は、主屋の玄関東南隅柱と石蔵の庇柱を繋いで建ち、玄関が位置する前庭と、主室・次の間や離れが面する内庭を区画しています。
 
 庭門は、間口は1.16m、腕木門の形式で、出節の磨き丸太の親柱で直接棟木を支え、柱から前後に腕木を出して丸太の桁を置いています。垂木は磨き丸太で、切妻造・銅板葺の緩勾配の屋根を掛けています。現在は門扉が無いが、親柱に残る金具から元は開戸2枚と推測できます。瘤付き丸太の挽割りの無目鴨居と棟木の間にしゃれ木の板欄間を入れており、類似の材は主屋西列の部屋境の欄間にも用いられています。
 
 庭門の両側に立つ内塀は、木造・銅板葺で、正面左手は主屋玄関の東南隅柱まで、右手は石蔵の庇柱を経て、石蔵西北隅まで鍵型に続いています。高さは2.53m、土台上に立ち、正面は竪板張りに細竹の吹寄の押縁、裏面は竪板の目透し張りを割竹で押さえ、いずれも上部は漆喰を刷毛引きとしています。主屋玄関や石蔵と相まって、瀟洒な前栽を演出しています。
 

石蔵正面
 
(3)石蔵

 石蔵は、木骨石造2階建で、主屋南東に建ちます。規模は梁間2間半・桁行3間半、屋根は切妻造・桟瓦葺の置き屋根で、前面に奥行4尺の桟瓦葺の庇を付しています。柱は、梁間は半間ごとに立てるが、桁行方向は8分割し、かつ庇の柱位置とは一致していません。軸部は小屋梁を柱1本置きに掛ける折置組で、上部に小屋束を立てて棟木と母屋4本を支えるが、垂木は無く直に野地板を掛けています。
 
 注目されるのは、柱の内部側面に木舞の枘穴が残り、かつ柱・梁・野地板に土壁の塗跡が見られる点で、当初は土蔵造で、後世に土壁を石積みに変更したことが判明しています。石蔵では事例が少ない置き屋根も、土蔵当時の小屋組をそのまま用いたためと思われます。石材は、三浦市近辺で産出する金田石・鷹取石等とみられ、高30cm×幅80cm×厚16cm程度の切石を主とし、軸部と折釘で緊結しています。
 
 三浦半島周辺は、石材が近隣で入手できるため価格が安く、土蔵より工期が短いことから、木骨石造は「ジクグラ」と呼ばれて土蔵造の代用として明治初期から普及し、明治中期以降は店蔵にも採用されました。また関東大震災後、横須賀海軍工廠によりセメントの流通が統制されたこと、対岸の房総半島から石材の流通が増加したことから、震災後も石造が使い続けられた点が特筆され、房州石の桜目など見場の良い石の普及により、震災後は外壁を漆喰で塗らず石を意匠的に見せる例も現れた(濱田陽介・小沢朝江「神奈川県三浦市三崎における石造町家と石材の流通」日本建築学会大会学術講演梗概集、2009)。
 
 旧長谷川家住宅の石蔵は、外壁を漆喰で塗らず石材をそのまま見せ、入口廻りに繰型を施した石製の持送りを付け、軒の鉢巻も石材で形作るなど意匠的であって、関東大震災後の特徴に一致します。同市三崎町では明治中期頃から土蔵より石蔵が普及していることなどから、前身の土蔵は明治中期以前に遡る可能性が高く、関東大震災後に石蔵に改造したと考えられます。
 
(由緒・沿革、建設年代・改修年代、建物についての文章作成:東海大学工学部建築学科 教授 小沢朝江)
 
 
 
 

敷地と間取りについて

敷地の配置図(着色部分が国登録有形文化財)
 
敷地空撮
 
敷地周辺の景観
 
 
主屋正面
全体外観
正面玄関(南西方向から)
石蔵
 
庭門
玄関内観
正面玄関を入ると、一枚板の上がり框があり、左側壁が黒漆喰、天井が格天井となっています。
前室
前室上部には、巨大な神棚が設置してあり、正面の1枚絵の襖を開くと和室6帖の仏間があります。
仏間
仏間には、作り付けの大きくて見事な仏壇があり、この部屋から左右の部屋に移動できる。
主室、次の間(南西側から)
仏間の東側にある和室10畳の二間続きがメインの部屋となり、書院造の様式となっている。
主室、次の間(南側から)
床の間には、黒柿の床柱を使用し、左に違い棚、右に付け書院を配している。
主室、次の間(東側庭を望む)
主室、次の間(南東側の庭から)
 
主室東側の庭
南西八畳間
主室東側廊下
主室の周りに、一枚板の床と10m近く飛ばした丸太の梁で出来ている広縁があり、その右手奥に数寄屋造りの部屋がある。
離れ(前室)
 
離れ(主室)
離れの主室は、母屋の主室と違い、丸みのある面皮(メンカワ)を残した柱の使用や自然材を使った床柱等の数寄屋の特徴が良く出ている。
離れ(東側)
離れ(南東側から)
離れ東側の竹林
 
離れ濡縁上部の網代天井
離れの障子
障子等の木製建具も当時からの物であり、美しく見せるために細い桟を細かい間隔で入れてさらに面取りを施している
離れの窓
特に離れに見られる建具は、現在作れる人がいないのではと思えるほど精緻な造りとなっている。
離れの窓
その他にも、各部屋の天井の違いや欄間などの細工、廊下を通過して仕舞う雨戸など見るべき部分が多い建物です。
 
 
 
 
 

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